手児奈霊神堂由来
真間の手児奈伝説
美しい里娘「手児奈」
むかしむかしの、ずっとむかし「手児奈」という美しい娘がいました。上品で、満月のようにかがやいた顔は、都の、どんなに着飾った姫よりも、清く、美しくみえました。
その美しい手児奈のうわさはつぎつぎと伝えられて、真間の台地におかれた国の役所にもひろまっていったのです。そして、里の若者だけでなく、国府の役人や、都からの旅人までやってきては、結婚をせまりました。しかし、手児奈はどんな申し出もことわりました。そのために、手児奈のことを思って病気になるものや、兄と弟がみにくいけんかを起こすものもおりました。
それをみた手児奈は、 「わたしの心は、いくらでも分けることはできます。でも、わたしの体は一つしかありません。もし、わたしがどなたかのお嫁さんになれば、ほかの人たちを不幸にしてしまうでしょう。ああ、わたしはどうしたらいいのでしょうか。」 といいながら、真間の入江まできたとき、ちょうど真っ赤な夕日が海に落ちようとしていました。
それをみて、 「どうせ長くもない一生です。わたしさえいなければ、けんかもなくなるでしょう。あの夕日のように、わたしも海へはいってしまいましょう。」 と、そのまま海へはいってしまったのです。
追いかけてきた男たちは 「ああ、わたしたちが手児奈を苦しめてしまった。もっと、手児奈の気持ちを考えてあげればよかったのに。」 と思いましたが、もう、どうしようもありません。
翌日、浜にうちあげられた手児奈のなきがらを、かわいそうに思った里人は、手厚くほうむりました。
行基菩薩「手児奈」を供養する
時代はさかのぼり、奈良時代の天平9年(737)行基菩薩(ぎょうきぼさつ)がこの地にお立ちよりになられた時、手児奈の悲しい話をお聞きになり、いたくその心情を哀れに思い、「求法寺」というお寺を建て、手厚く弔われました。
それからおよそ100年ほど過ぎた平安時代、弘仁13年(822)に弘法大師(空海)が教えを弘められるためにおいでになられた時、求法寺の境内整備をなされ、「求法寺」を「弘法寺」と改称されました。
その後、鎌倉時代に入り、建治元年(1275)の時、住職である了性法印尊信と地元の有力者富木常忍公(後に下総中山に法華経寺を創設)との間に問答が起こりました。富木常忍公より連絡を受けた日蓮大聖人は、伊予房日頂聖人(後に六老僧)を遣わし法論をさせました。
その結果、日頂聖人が見事に法論に勝たれ、以来「弘法寺」は法華経の道場となりました。
地元の女神となる「手児奈」
また時代はさかのぼる文亀元年(1501)9月9日、当山第7世日与聖人の夢枕に「手児奈」が現れ「良縁成就」「孝子受胎」「無事安産」「健児育成」の守護を誓いました。
以来、真間の地を守護する女神として多くの信仰を集めています。
詳しい連絡先は…
手児奈霊神堂(てこなれいじんどう)
所在地 |
千葉県市川市真間4丁目5号21番
|
|---|---|
連絡先 |
047-371-2953【電話・FAX】
|
メール |
|
時間 |
午前9時~午後4時半(基本)
|

